『キングダム』を読んで最も知りたかったこと。
「統一後、彼らはどうなったの?」
信は大将軍になれたのか?蒙恬は?王賁は?そして昌平君は本当に裏切るのか?
史実をできる限りあたった結果、いくつかの驚くべき事実と諸説が見えてきました。
これは、夢を追い続けた者たちの、その後の物語です。
- 👑 嬴政(始皇帝)- 中華を統一した男の最期
- 🗡️ 李信(信)- 夢は叶ったのか?
- 🛡️ 蒙恬(もうてん)- 名門の悲劇
- 🏹 王賁(おうほん)- 王翦の息子の運命
- 🎭 王翦(おうせん)- 戦国最強の将軍
- 💪 蒙武(もうぶ)- 中華最強の証明
- 📜 李斯(りし)- 天才宰相の転落
- 😈 趙高(ちょうこう)- 秦を滅ぼした宦官
- 🎭 昌平君(しょうへいくん)- 最大の裏切り者?
- ⚔️ 李牧(りぼく)- 趙の守護神の悲劇
- 🔥 項燕(こうえん)- 楚最後の名将
- 🌸 羌瘣(きょうかい)- 実在したのか?
- 🗻 楊端和(ようたんわ)- 山の民の王
- 🎯 騰(とう)- 王騎の副官
- 🔥 廉頗(れんぱ)- 老将の最期
- 👑 六国の王たちの運命
- 📚 まとめ:統一後の運命
👑 嬴政(始皇帝)- 中華を統一した男の最期
天下統一の達成
紀元前221年、嬴政は六国すべてを滅ぼし、史上初の中華統一を達成しました。この時、嬴政は38歳でした。
統一を達成した嬴政は、「王」という称号では不十分だと考え、伝説の三皇五帝から「皇帝」という新しい称号を作り出し、自らを「始皇帝」と名乗りました。
統一後の偉業
始皇帝は李斯を丞相として重用し、数々の改革を断行。
主な施策
郡県制の確立(中央集権体制)
文字の統一(小篆)
度量衡の統一
貨幣の統一
車軌の統一
馳道の建設(全国道路網)
長城線の大規模な修築・連結
焚書坑儒(思想統制)
これらは後世の中華帝国の基礎となりました。
不老不死への執着
方士の徐福に東海の三神山(蓬莱・方丈・瀛洲)探索を命じるなど、不老を模索。水銀を含む薬を用いたと伝わります(諸説あり)。
突然の死
紀元前210年、第5回目の巡幸中に沙丘(現在の河北省付近)で急死。享年49(数え50)。
死因は病死説・水銀中毒説など諸説。
趙高の陰謀
死の事実を握ったのは李斯・趙高・末子の胡亥。
趙高は李斯を取り込み、遺詔を改ざん。長子・扶蘇に自殺を命じる偽詔を送り、胡亥を二世皇帝に据えました。遺体の腐臭を隠すために魚の車を並走させた、という逸話も伝承として残ります。
秦の滅亡
胡亥と趙高の専横で各地に反乱。紀元前209年に陳勝・呉広の乱が起こり、紀元前206年、統一からわずか15年で秦は滅亡。
結論:統一と制度設計は画期的だったが、帝国自体は短命。帝国は短命、制度は長命という逆説を残した。
🗡️ 李信(信)- 夢は叶ったのか?
統一戦争での活躍
李信は実在の将。前229年の趙攻めで太原・雲中を攻略、前226年には燕の太子丹を追うなど功績を重ねました。
楚攻めでの大敗北
前224年、政が「楚を討つ兵数」を問うと、李信は「20万」、王翦は「60万」と答え、李信案が採用。しかし楚(項燕ら)に大敗し、追撃で壊滅。七将が戦死する惨敗となりました。
その後の復活
のちに王翦・蒙武の楚攻略へ合流。前222年に燕・代、前221年には斉平定に関与し、統一を達成。
李信の最期
統一後の確実な活動記録は乏しく不明。早逝か、政変を避けて退いた可能性も指摘されます。
李信の系譜
子・李超:秦の将
孫・李広:「飛将軍」と称された漢の名将
唐の李氏:李信の後裔を称したとされる系譜が伝わる(実証には諸説)
李世民(唐太宗):系譜上の称えとして李信末裔説が流布
結論:楚での大敗はあったが統一に至る功あり。統一後の実像はわかりませんが、系譜伝承は後代に大きな影響を与えた。
🛡️ 蒙恬(もうてん)- 名門の悲劇
統一戦争での活躍
楚での敗戦後、李信・王賁とともに前222年に燕・代、前221年に斉を平定して統一に貢献。
統一後の重要任務
匈奴対策:大軍を率いて北辺を安定させ、オルドス地帯を奪回。
長城:西の臨洮から東の遼東に至る諸長城線を修築・連結(動員と犠牲が大きかったと伝わる)。
直道:雲陽—九原間の直道建設を担当。
若年時は法(刑)を学び、筆の改良に関する伝承もあり「筆の始祖」と称される。
始皇帝の死と趙高の陰謀
前210年、始皇帝急死。趙高らが偽詔を発し、扶蘇は自害。蒙恬は偽詔を疑い従わず投獄。
蒙恬の最期
胡亥は一度釈放を考えたが、趙高の讒言で自害に追い込まれたとされる(諸説あり)。享年はおよそ50前後とも。
結論:北辺整備の大功を立てたが、権力闘争に斃れた悲劇の将。
🏹 王賁(おうほん)- 王翦の息子の運命
統一戦争での活躍
前225:魏の大梁を水攻めで陥落させ魏を滅ぼす
前222:李信・蒙恬とともに燕・代を滅ぼす
前221:斉平定、統一の完遂
統一後の記録
統一後の詳録はほとんど残らない。引退説・早逝説など不詳。
王賁の子孫
子の王離は前207の鉅鹿で項羽に敗れ捕虜に。これが秦滅亡を決定づけた一因に。
結論:統一の功臣だが、家門は秦と共に傾いた。
🎭 王翦(おうせん)- 戦国最強の将軍
趙攻略の策略家
前229、王翦は羌瘣・楊端和らと趙を攻めるが、李牧・司馬尚のため苦戦。
王翦は趙王の寵臣・郭開を通じて讒言工作が行われたと伝わる。幽繆王は李牧を処刑、司馬尚を罷免。三か月後に趙は滅亡。
楚攻略での駆け引き
前224、楚遠征兵力で李信20万・王翦60万案。李信案が採用されるも敗北。
のち政が王翦に請い、60万で再遠征。
疑いを避ける知恵
王翦は褒賞(良田・屋敷)の再確認を繰り返し、「財貨にしか執着がない」ことを示して疑いを避けた、と史書にあるエピソードが伝わる。
項燕との最終決戦
堅守で楚軍を消耗させ、退却開始を狙って追撃し大勝。前223、楚は滅亡。
王翦の最期
会稽郡設置(前222)の後、記録は不詳。粛清や戦死の記録なし。
結論:慎重と計略で不敗を全う。後半生はわかりません。
💪 蒙武(もうぶ)- 中華最強の証明
楚攻略で王翦の副将として活躍。蘄南で項燕を討った、あるいは自害に追い込んだと伝えられる。
楚滅後の記録は乏しく、引退して天寿を全うした可能性。
一方で、子の蒙恬(前210)・蒙毅(前209)が趙高の陰謀で相次ぎ失われた。
結論:戦には勝ったが、家は政治に敗れた。
📜 李斯(りし)- 天才宰相の転落
統一政策の立案者。
同門の韓非子を讒して投獄・服毒に追い込んだとされる。
沙丘の変に関与したのち趙高と対立し、前208に腰斬。
結論:国家を設計し、陰謀で散った二面性の象徴。
😈 趙高(ちょうこう)- 秦を滅ぼした宦官
沙丘の変の中心。扶蘇・蒙恬の失脚を演出し、二世を傀儡化。
「指鹿為馬」の逸話は有名だが、“馬鹿”語源説は俗説。
前207、望夷宮の変で胡亥を弑。のち子嬰・韓談らにより誅殺。
結論:内側から秦を崩壊させたキーマン。
🎭 昌平君(しょうへいくん)- 最大の裏切り者?
楚の王族、秦の重臣
楚王族系譜(考烈王の子とする説を含む)が伝わるが、確定ではない。
秦で嫪毐の乱を鎮圧し右丞相に。やがて楚の郢へ左遷。
前224、王翦が楚王・負芻を捕虜にすると、項燕は昌平君を楚王に擁立。
昌平君の最期
前223、王翦・蒙武に敗れ、戦死または処刑(詳細不明)。これをもって楚は滅亡。
結論:秦の重臣であり楚王でもあった——血と立場の板挟みが生んだ悲劇。
⚔️ 李牧(りぼく)- 趙の守護神の悲劇
北辺で匈奴十万余を討ったと伝わる名将。対秦でも度々勝利。
郭開の讒で失脚し処刑(斬首説・自害説いずれもあり)。
処刑から約3か月後、趙は滅亡。
結論:英雄を失った国は速やかに崩れた。
🔥 項燕(こうえん)- 楚最後の名将
李信・蒙恬の遠征を大敗させた局面の主力。
前224–223、王翦・蒙武と最終決戦の末、自害(年次は諸説)。
孫の項羽が前206に秦を滅ぼし、志を継いだ。
結論:命は尽きても、血が”復讐”を果たした。
🌸 羌瘣(きょうかい)- 実在したのか?
史料に羌瘣の名は見えるが、性別や詳細は不明。
前229の趙攻めで王翦・楊端和とともに邯鄲攻略に関わった可能性が語られるが、その後の記録は乏しい。
キングダム版の設定(女性・蚩尤・信との関係など)は創作。
結論:史料に名は残るが、実像は不詳。
🗻 楊端和(ようたんわ)- 山の民の王
史料に登場する秦の将。前229の邯鄲攻略に関与したと見られるが、以後の記録は乏しい。
作中の”山の民”像や人物像は創作寄り。
結論:実在は濃厚だが、後半生は不明。
🎯 騰(とう)- 王騎の副官
前231:韓を攻める
前230:韓を滅ぼす
統一後の動静は不明。
結論:韓滅亡の立役者だが、その後は史料に乏しい。
🔥 廉頗(れんぱ)- 老将の最期
趙三大天。のち魏へ、さらに楚へ。
帰還は郭開の報告で阻まれたとされ、寿春で病没(年代推定)。
結論:祖国を想いながら、異郷で散った老将。
👑 六国の王たちの運命
趙・幽繆王:李牧を処刑後、王翦に敗れて滅亡。
楚・負芻:王翦・蒙武に敗れ捕虜、楚は終焉へ。
燕・喜/太子丹:暗殺未遂後、薊陥落。前222に燕滅亡。
魏・假:大梁水攻めで陥落、前225に滅亡。
韓・安:前230、六国で最初に滅亡(騰)。
斉・建:前221、ほぼ無血で降伏し、統一が完成。
結論:六国の王は、抗して捕らわれるか、抗さず降るか。いずれも屈辱の終幕を迎えた。
📚 まとめ:統一後の運命
統一は達成されたが…
嬴政:統一を完成させるも、前210年の急死と政争で帝国は崩れへ。
李信・王賁:統一達成の功は確かだが、統一後は不詳。
蒙恬:北辺整備の大功。自害に追い込まれたとされる(諸説)。
王翦・蒙武:楚滅亡後は記録乏しい。
昌平君:楚王に擁立されるも敗亡(経緯は諸説)。
李斯:国家設計の功と、陰謀への関与。腰斬で最期。
趙高:内側から秦を崩壊させた。指鹿為馬は逸話、語源説は俗説。
李牧:処刑ののち趙が滅ぶ。
項燕:敗れて自害。孫・項羽が秦を滅ぼす。
羌瘣・楊端和・騰:以後の実像は不明。
秦の滅亡と光の継承
前210年に始皇帝が死去し、わずか4年後の前206年に秦は滅亡。
確かに、国家としては十五年という短命だった。
だが――嬴政が築いた法と制度の基盤はその後二千年を超えて生き続ける。
郡県制、度量衡、文字、道路、統一貨幣。
それらは形を変えながら漢・唐・明・清、そして現代中国の根幹に残った。
つまり、帝国は滅んでも、理想は滅びなかった。
嬴政の掲げた「法の下に人が平等に生きる国」「血を流さずに治まる世界」という理念は、
制度という形で受け継がれ、現代にも息づいている。
秦を壊した”光と影”
秦を崩壊させたのは、外敵ではなく内部の闇——宦官・趙高の陰謀だった。
彼は扶蘇と蒙恬を葬り、胡亥を操って国を壊した。
だがその”闇”さえも、嬴政が求めた「法による秩序」の必然的な副作用だったのかもしれない。
強大な中央集権は、同時に腐敗をも内包する。
それを抑える制度は、後の時代が整えていくことになる。
結論:嬴政の夢は、確かに果たされた
たとえ彼の肉体が滅び、国が崩れても、
「法による秩序」という思想は生き残った。
十五年の短命は、二千年の礎となった。
その意味で、嬴政の戦いは完全な敗北ではなく、長い時間の果てに実った勝利だった。
彼らの戦いは無駄ではなかった
作中の生々しい台詞を思い出すと、時代の温度がより鮮明になる。桓騎「人はそうはならない」黒桜「皆殺しにしてやる」といった、報復の連鎖が自分たちの時代でただちに終わるわけがない。でも、嬴政は──少なくとも物語と史実の交点で描かれる彼は──自分たちの世代の勝敗だけではなく、「もっと先」の世代が生きやすい秩序をどう作るかを見据えていたのではないだろうか。
つまり、刃を振るう者たちの叫びと、法を紡ごうとした者の視座は異なる。短期的な暴力と、長期的な制度。前者が国を動かし、後者が世界を変えたのだ。
六国制覇後の運命は、栄光と裏切り、陰謀と復讐が交錯する壮絶なものだった。
しかしその血と夢は、確かに世界を変えた。
帝国は短命、制度は長命。
そして——嬴政の理想は、今もなお続いている。
参考:史記、戦国策、漢書ほか/研究書・通説を踏まえた要約(異説あり)



